昭和46年09月11日 朝の御理解



 御理解 第78節
 「神の機感にかのうた氏子が少ない。身代と人間と達者とがそろうて三代続いたら家柄人筋となって、これが神の機感にかのうたのじゃ。神の機感にかなわぬと、身代もあり力もあるが、まめにない。まめで賢うても身代をみたす(尽くす)ことがあり、また大切な者が死んで、身代を残して子孫をきらしてしまう。神のおかげを知らぬから、互い違いになって来る。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けることができるぞ。」

 一番大事なところは、神のおかげを知らぬから、互い違いになって来る、そこから神の大恩を知ると言う事がこの御理解の一番大事なところと思います。神のおかげを知らぬから、互い違いになって来ると仰有る、ですから、神のおかげをおかげと分からして貰うて、行くところから、天地の大恩ね、神の大恩を知る事が出来るのである、そう言うところから、私どもの願いであるところの、子孫の上にも身代の上にも、しかもそれが一年勝り代勝りの、おかげを受ける事が出来るのと言うです。
 ですから、どうしても神のおかげを知らぬからと仰せられる、神のおかげを知らなければ、いけんのです。そこでなら、皆さんに神様のおかげは知っておられますかと、もし私が問うたら、皆知っとると云われるだろうね、合楽にご縁頂いとられる方たちはね、お願いをしたおかげを頂いた、これこそ神様のおかげだと実感する事は、神のおかげを知ったと言う事になるのですけれども。
 此処ではね、神のおかげを知らぬから、互い違いになると仰有る、神のおかげとは、お願いをして御利益を頂いたと言う事ではないのである、神のおかげを知らぬから、互い違いになる、だから私はそこんところが、分からして貰うために信心の稽古をしておるというても良い位です。神のおかげがおかげと知れたら、どういう答えになって来るでしょうか、神のおかげをおかげと知ったら、どう言う事になるでしょうか。
 大阪の玉水教会の、初代のお言葉、当時今でもたいした教会ですね、夜も昼もいつも、よその大祭の様なお参りが、ずうっと何十年間も続いておる、たいした事でありますね、所謂、年勝り代勝りのおかげを受けておられるのです、それは玉水の湯川先生が、神のおかげをおかげと知っておられたからなのです、だから私共がいうおかげとは、大変な違いがある訳ですね、それはお参りしてみなさい病気も治りますよ、金銭のお繰り合わせも頂きますよと言った様な、おかげじゃないのです。
 それこそ1年勝りのおかげを頂いてある、神のおかげを知れば互い違いになって来るような事もない、神のおかげを知らぬから、本当のおかげになって来ない。玉水の初代は神のおかげをおかげと知ってござったからこそ、あのような大徳を受けられ、おかげを受けられ、年勝り代勝りのおかげを受けられた、そして私どもまで、その御恩恵によくする事が出来た、先生のお言葉だと、聞かせて頂いて、成るほどそうだなと、分からせて貰う、そういう信心を残された。
 神のおかげをおかげと知っておられたからこそ、こういうお言葉になって表れ、又は残されたのであります、ここんところを一つ、いつも私が申しますから、暗記して下さい、間違いなく申しますからね。自分の都合の良い事は喜び、都合が悪い事は、不足にいうのは、未だ本当の神様が分かっていない、と言う事、本当の神様が分かると言う事、都合が悪い事も、喜ぶようになれば、一切が自由になる、自分には都合の悪い事があってもです、それを喜ぶようになれば、一切が自由になる。
 一切合切が喜べれば、一切合切が自由になる。金光教は生きながら極楽という、そういうおかげをご自身頂いておられた。自分の都合の良い事は、喜び、都合の悪い事は、不足にいう、自分に都合の悪い事は、不足にいうそれは未だ、本当の神様が分かっていない、だから、神のおかげを知ると言う事は、本当の神様を知ると言う事、本当の神様が分かったら、それは目先には、自分に分の悪い、都合の悪い事のように見えるけれども、それは、神のおかげである。
 神様の特別の働きであると、知る事が出来る、今日私が皆さんにいう、神のおかげを知らんからと仰有るのは、そういう意味のおかげなのです、それには矢張り本当の神が分からねば、中々自分に都合の悪い時には、やっぱり都合が悪いというて、不平をいい不足をいう、憎んだり怨んだりまでする。だから本当の神様を分からして貰う、本当の神様が分かっていない。都合の悪い事も、自分には成るほど都合の悪い。
 叩かれれば、言わば痛いです、けれどもその都合の悪い事も、喜ぶと言う事は、本当の神様を分かっておるから、喜べるのです。叩かれれば痛い、痛うございます、けれども有り難いのです、どんな、例えば難儀の中にあっても、神様がこのようにして、私を鍛えて下るんだ、力を与えて下さるんだ、本当のことを分からせて下さると思うから、御礼がいえれる、その難儀な事に対しましても。
 そう云う信心になればです、一切が自由になる、私はここんところ、一切合切が喜べれば、一切合切が、自由になるとさえいうとられる。ある時にある先生が、玉水の先生に、お尋ねになりました、それは名前は出してありませんでした、ある教会のある先生が、私にこう言う事を尋ねられたというて居られます、湯川先生お宅には修行生の方達が、何十名も居られますが、家あたりは教会家族のものだけでも、お客さんが何人かの家族に、お客様がちょっとあると、もうそれだけ、お金が足りなくなったり、お米が足りなくなったりする、というのである。
 ところがお宅は、何十人の修行生が居っても、足りないと言う事がない程の、おかげを頂いとられますが、そこんところのおかげを頂くコツ合いを教えてください、というて尋ねられた。だからお道の教師が、そのくらいの事も、分からんかと思うたという意味の事をいうて居られます。自分が出してやるとか、自分が食べさせてやるとかと、思うてばし居るじゃろうかという訳なんです。
 修行生には、自分が賄うてやっておるばし、思うとるじゃろうか、あなたは家族を養わんならんと思うて居られるから、家族だけは、まあどうやら、賄ううて貰うて居るけれども、もうお客さんがあると、もうそれだけは不足する。私共はもう家族であろうが、修行生であろうが、お客さんであろうが、神様から賄うて頂きますと、いわれたそうです、だからちゃんと修行生が入って来ると。
 どこの何々の誰れそれが、今度この教会で修行生として入って来るようになりましたから、どうぞ神様宜しうというてお願いをなさる。私の場合なんか、お願いもしません、もう神様はご承知だと思うから、今日お客様が突発的な、言わば、突然のお客さんがあるやら分からん、だから、そげなのは、神様にお願い出来ませんもん、けれども、合楽教会に、何日、どれだけのお客さんがあるという事を神様がご承知であるという事を、私は信じておるのです。
 いわゆる段々本当の神様が分かつて来る、本当の神様とはそう言う神様なんです、もうあれが頼まんじゃったけんおかげやるまいと、いう神様じゃないと言う事、湯川先生もやはりそうでおありであった、自分でばし賄うていきよると思うとるじゃろうか、神様のお賄いを頂かなければ立ちゆく事ではないのにと、いう訳なんです。我がない自分がない我があれば、自分があれば、それだけはもう差し引かれる、それが神様の働きそれはもう、本当に最近ですね、梅里先生がずうっと庭造りに来て頂いとります。
 あの先生歯が全然ありません、入れ歯もはめられませんから、もう本当に軟らかいものだけしか召し上がらん、そのうえ甘いものが大変お好き、久富さんがずうっとかかって、一週間ばかりお茶のご用を、お茶が大変お好きですから、されますそれにはもうその時その時に、やわらかいものが甘いものが、お好きですから、甘いものがです本当にこの近所にこげな良かお菓子を売る店がおありになさるかと、思いなさるくらいに、次々にちゃんと頂きます。
 お弁当は、持って見えますけど、必ず家内がやわらかいもの二.三少しづつ作って差し上げますけれども、本当にやわらかいもの作って差し上げる、そのやわらかいものの材料がです、必ず集まって来ると言う事、これなんか神様が、ははぁ神様がこういう歯のない、じいさんが来なさるという事を知っとるからです。これは段々私が、本当の神様が分かってきたからと、言う事が言えるのです、いついつ幾ら支払わんならん事が分かる、神様が知ってござる、こっちはいっちょん分からん。
 今月も昨日が支払い日でしたが、50万円ばっかりいつもよりか、それこそ突発的な支払い、それでまあ二.三か月後に請求が来るじゃろうぐらいに思いよった。ところが今月来とった、だから来とりますが、払いますかと久保山さんがいうから、あるなら払っといて下さいと、丁度そがしこ余分にあった、これはお金の事食べ物の事だけじゃありません。今月はいつも30万くらいでしょうかね、いろいろな支払いが、今月は、80万からあった、こざこさの支払いがです。
 此処のですから50万、ならば月賦でなりとも、払わして貰わじゃこて、とかなんとか待って下さいとか、言う事は、一つもいらん、これらは神様が、今月はこれだけ余分に支払いがあると言う事を、知っておられるからこそ、それが出来るのです。私はね本当の神様が分からんからと、湯川先生が仰有っとられます、本当の神様が分かるところからです、不平不足を云わんで済む訳であります。自分の例えば、都合の悪いことが有ってもです、それを本当に神様の働きだと、分からせて貰うから。
 例えば叩かれれば、肉体を持っておるから、痛いですね例えていうと、けれども痛いけれども有り難い、と言う事になるのです。一切合財が有り難く受けられる訳です、だから。神のおかげを知らんからという、おかげは、そう言う事なんです、一切合切が喜べれば、一切合切が自由になる、金光教は生きながら極楽、私どもはそこを目指す、ですから現在、私が頂いておるところをいよいよ、垢抜けしたものに、もっと広い深い意味合いにおいて、分からせて頂き、少し大きな事であったりすると。
 日頃此処で頂いておるから、どっこいというて、受けて行くけれども、確かに受けて行きますけれども、それが、些細な事の場合なんかは、不平を言います、不足を言うそげな事があるもんかといいよる、だから一切合切を受けていない事になる。ここんにきは、信心があると、有り難いですね、例えば信心の薄い人やら、無い人やらは、まあ一寸したくらい、まあよかよかちとこういう。
 ところがちぃっとばっかり損になったり、よけい損になったりり、よけい自分の方が、分が悪うなると、そげな事があるもんのというてから、赤面弁慶になって腹かく、すると、私どもの場合は反対です。私共ちったあよろよろする事が有っても、どっこいと受けるです、受けるのが、本当だと思うから受けるのです、けどやっぱり、目が荒いものですから、もう分かりきっとるけれども、一寸した事が、そげな事でどうするかというてから、家内なんか、怒っておるときは、もう一切合切を有難く頂いていない時です。
 だからそう言う所にも、目の細いいうならば水も漏らさん程しの、信心が出来て、小さい事でも大きな事でも、有難く受けさせて頂くようになりゃ、そこに極楽がある訳です。金光教は生きながら極楽という、そういうおかげを頂くためにもです、どうでも神のおかげを知らなければいけません、神様のおかげと神様にお願いをして、ご利益を頂く事だけが、おかげではない、一切合切が全てが神様の働き、神様のおかげであると、いわゆる悟らにゃいかん、分からせて頂く所からです、おかげになってくる。
 神の大恩が分かるとき、いわゆる本当の神様が分からして頂き、その本当の神様が人間氏子の上に、どのような働きをしておって下さるかという事が分かる、それが神の大恩が分かるという事、それには、只今私が申しましたように、神様は、私どもがまあだ思いもしないような事を、突発的に金が要るような事が起ってくるから、神様はちゃんと前々から、こうやって準備をしておって下さる。
 今月は特別の金入りじゃったけんで、月々ちっとばかりとってくれんのと、言う事がいらん、さあ修行生が二人増えたから、三人増えたから家の者は、お粥を食べとかんならんと言う様な事がない。突然のお客さんがある時には必ず、これは絶対必ず何かお御馳走ができとる時、有りますです、はあ合楽はいつもこげん贅沢しござるじゃろうかというごと有ります、本当に有るです。
 神様があなたが見える事は、ご承知だったですねというて、矢張り自分がきたけん、よけいにサービスさっしゃるばいの、という位有るです、しかも珍しいものが、それこそ歯の無い人がお客様に見える時には、歯の無くても食べられる軟らかいもの、しかも美味しいもの、甘いものが好きな人には、ちゃんと甘いものがちゃんと準備してある、と言う事がです。本当の神が分かってくるから、神の大恩が分かってくるから、神様はそういう働きをして下さる。
 正しく極楽に近づかせて頂いておる事を気づかせて貰います。ですからもっともっと、目ごもうですね、本当に一切合切を、一切合切を喜べば、一切合切が自由になる。金光教は、生きながら極楽というところの、おかげを目指して、お互い信心させて、貰わねばならんためには一つ、神のおかげが分からなければいけません、だから神のおかげとは、だからおかげの本質ですね。
 今日私が申しましたのは、私どもが、おかげおかげというて居るそのおかげの本質とは。こう言うものだと言う事を、今日は、皆さんに聞いて頂いた。そこから一切合切が有り難い、不平を云わんで済む、日々日常生活が出来る様な、おかげを受けられる、そこには、子孫も続き、身代もでき、一年勝り代勝りのおかげを受ける事が出来るぞと教えておられます。私共が一番願って願ってやまない事。
 そのおかげが、成就して行く事になるのです。ただ自分のお願いをして、都合のよい事だけは、喜ぶけれども、都合の悪い事は、喜べんというのは、神のおかげを知らんから、そういう信心がよし一生続いても、決して子どもには残らん、孫には伝わらん、いわゆる一年勝り代勝りにはならん。どうでも一つ、一年勝り代勝りに、おかげの頂いていけれるような信心をね、私共がそういう土台造りをしておかなければ、ならんと思います。
   どうぞ。